200617 ハタチ D-51

最近知り合った人にあんたのことがさっぱりわからんと未知のストレート球で殴られて、自分のことがわからなくなった。
具体的には、人となんのためにコミュニケーションとってるのか、どういう人が好きでどういう人が嫌いで、何を言われたら気持ち良くて何が地雷なのか、みたいなこと。分析して把握してないと落ち着かないのに、わたしはいくら分析しようとしてもできなかったらしい。わたしはそんなこと言われたことも考えたこともなかったからフリーズしてしまって、その日はとりあえず、わたしというものは何も考えてなくて、自分が無であることについても無っていう人ですって結論が出た。それで、その日から彼女や彼女に似た面白い人たちと話がしてみたいからもう少し考えてみよう(あわよくばそちら側の人に変化しよう)とした結果、十九にして自我が芽生えたっぽい。

まず取っ掛かりとして他の人がどうなのか訊いてみて近いものを探そう、どういう人がいるのか把握しようと思っていろんな場所でいろんな人を質問攻めにしてみた。知らなかった言葉がたくさん出てくるから、そうやって自分のこと理解して表現するんだって思って面白かったり、逆にそもそも別に変わる必要なくない?って言ってくれる人が現れたりもした。今は少し掴みかけてしまっているけど、わたしは自分のことがよくわかりません、あなたはどうですか、から始まるコミュニケーション、お手軽に本質的な話ができて面白かったな。具体的な話はちょっと恥ずかしいので控えるけど、前までできなかった言語コミュニケーションがちゃんと取れるようになったし、相手のことを知りたいとか自分のことをわかってもらいたいみたいなモチベーションがちゃんと生まれた。やったね。

ストレート球を投げてきた彼女の言うことには説得力があるので、それが社会スタンダードで自分に同じように振舞えないのはおかしいと思ってたこともちょっと問題だったって気付くのに結構時間がかかった。信仰しちゃってた、というか今もなお信仰してるとこはあるけど。


無を振る舞おうとするのはそのほうが楽で楽しいし病まないし周りの空気を重くしちゃうことも少なくなるから。さっぱりめにオチつけて自分の話するの難しいもん。それと、記憶を消したり薄めたりするっていう形の辛さへの防衛機制を搭載してるから。
考え事をしてたら無意識に押し殺されてた記憶(人生の半分以上演劇してたこと、2回ぐらい精神科通いしてたこととか人格形成に大きめに関わってることほど忘れてる)や人格(自己分析厨、ただしあまり前向きな態度はとらない低生産性の)がポロポロ出てきて、そういえばわたしってこんな側面があったなって自分の解像度が上がるというか、薄っぺらいと思ってた自分の奥行きを知ることができる感じが新鮮で楽しかった。

今は、別に無で良いやって自然体でいることに決めたけど、好きな人ができて、この人に好かれたいとかこの人との関係を今と違うものにシフトさせたいとか考えるようになって、そこでまた壁にぶつかった。自分の良さとか価値をちゃんと把握してなかったから、良さをわかってもらうためのアプローチをかける術がない。あなたは自分のことをいいものだと思う?思うとしたらそれを相手はわかって、いいものだと思ってくれてると思う?って聞かれて、しばらくなんて答えていいかわからなかった。

人と比べだすとどこをとっても自分より上の人がいるから自信なくしてつらくなるし、究極自分いる意味なくね?ってなっちゃうから、あんまり人と比べることはしないようにしてたけど、そうすると逆に自分の良いところも見えなくなってたことに気付いた。比べなきゃ良いとこわかんないのもそれはそれで良くないのかもしれないけど、これだけは負けない、みたいなやつ、見つけたい。絶対的な自分と相対的な自分、両方愛したい。

で、そんなことを考えてたら、自分が他人に提供しうる価値はまだ探り中だけど、自分の好きなとこは結構たくさん見つけられた。何も悩みなさそうで実際何も悩んでない脳天気なとこ。割り箸を縦にして割らないとこ。感受性高いとこ。惚れやすいとこ。姿勢が良いとこ。わからんと思っても好きな人には(半ば体当たりだけど)理解しようと歩み寄ろうとするとこ。生活を一生懸命してるとこ。いやー、やっぱわたしが世界一偉いかもしれんな、ワハハ。

全力疾走の1ヶ月ちょっと、楽しかったからこれからも息切れしないくらいの感じで突っ走っていきたい。
読んでくれた人、ありがとう、感想代わりにわたしの好きなとこ教えてくれたら嬉しいな。